スキップしてメイン コンテンツに移動

プロフィール


尾池哲郎(おいけてつろう、1972年生まれ)

工学博士、化学者、作家


専門:非加熱化学

研究テーマ:常温常圧海水淡水化

研究原資:非加熱化粧品販売利益

著書:「美容の科学」(晶文社)


2007年「非加熱タイル」でものづくり日本大賞受賞

2014年 北九州学研都市に株式会社FILTOM創業

2015年「非加熱プラセンタ」で特許取得

2023年「美容の科学」出版  


開発履歴

記事一覧


このブログの人気の投稿

ブルマ曲線と三角関数

先日、家族と食事中に、突然、ブルマというものはもしかしたら着替えの覗きを防ぐための画期的なアイデアだったのではないか、と思いついた。 さっそく家族に話をすると賛同を得たので、もうすこし考えてみたところ、下のグラフのようなイメージにたどり着いた。 ある問題(女子の着替えの覗き)を解決する「ブルマ」という画期的なアイデアは、覗きの防止以外にも「スカートめくり防止」や「見せパン」といった副次的な価値も見出されることで、ある時から急速に市民権を得る。 その後、当初の目的(覗き防止)はいつしか忘れ去られ、 なぜブルマが存在するのかさえ分からなくなる が、優れたアイデアであるだけに、デザインだけは加速的に向上し、過剰な開発によって、しだいに目的とデザインが大幅に乖離し、ついにある段階で突然の崩壊に至る。 その流れを図式化したものが上の図だ。 このグラフを眺めていると、これはとんでもない示唆を含んでいるのではないか、と感じた。というのも、この曲線はまさしく三角関数の正接曲線だからだ。 通常、自然界(たとえば電磁波や交流電流)は正弦曲線の繰り返しで構成されている。 ところが、私たちの知的活動の繰り返しは、正接曲線に近い。 アイデアはたいてい、下劣で過激な(きわめてマイナスな)レベルから発生する。そしてある「心地よいレベル(快適な乱雑さ)」を超えても、私たちの制御したい意識を無視して、さらに開発は永遠に続けられる。原子力が好例かもしれない。 この正接曲線的な開発サイクルを、常に心地よいレベルに抑えるにはどうしたらいいのか、と思ったが、それは無理だということもよく分かる。なぜなら、このサイクル無くして、心地よいレベルを「通過」することはできないのだから。ブルマのように。 いや、一つだけ希望がある。それは一見永遠に続くかと思われるプラス側の開発(漸近線)が、実際にはきわめてマイナス側の開発の開始によって停止させられているということだ。 つまり、永遠に続くかと思われるプラス側の過剰な開発は、下劣で破壊的なアイデアによって停止できるということだ。

除夜の鐘と官能基

除夜の鐘を聞きつつまとめた。「官能」について。 官能基という素晴らしい訳語がある。化学物質の特徴的な部位のことで、たとえばバニラの香りのバニリンは3つの官能基を持つ。上から、カルボニル基、メトキシ基、ヒドロキシル基で、それぞれ特徴的な機能性がある。 官能基は英語ではFunctional group。直訳で機能基。しかし官能基と名付けた日本の化学者の文学的センスはすばらしい。官能基は概ね「出ている」。機能性を持つのだから、出ている部位になるのは当然なんだけれど、この「出ている」ところに「官能基」のおもしろさがある。 除夜の鐘を聞きつつ、自分の官能基を見る。ち〇〇も出ている。そして女性のおっぱいも出ている。当然だろう、という声も聞こえてきそうだけれど、ならば問いたい。なぜ隠すのか。せっかく出ているものを、なぜ隠すのか。おっぱいに至っては、中途半場に隠す。見えるか、見えないか、くらいに中途半端に隠す。バニリンはどの官能基も隠さない。いつでも反応できるように準備万端だ。しかし僕は官能基を隠している。 この、隠す、とか、しまう、という行為にも長年興味を感じずにいられなかった。私達はなぜ、「片付ける」のか。 辿り着いたのは、「使うべき時に使うため」ということ。官能基には「使うべき時」というものが前提としてあるのではないか。 有機化学でマスキング剤(阻害剤)というものがあって、使うべきでない官能基に結合させて、働かないようにすることができる。マスキング剤は体内にもある。隠すのも、片付けるのも、使うべき時にないものを隠し、あるいは守り、使うべき時に備えている。そうしないことが、「恥ずかしい」という心理につながっているのではないか。 知恵も「出す」と表現することに言葉の妙味を感じる。知恵も立派な機能だ。だから、出すべきでないときには、隠しておかなければならない。私たちの会話のほとんどは問題の解決ではなく、会話を楽しむこと自体が目的である。男性はここを勘違いしていると、多くの女性から指摘を受ける。 除夜の鐘は108の煩悩を消し去るために衝くと言うが、実はそうではない、とどこかのお坊様も考えているのではないか。それらは生きるために最も重要な官能であって消し去るなんてとんでもない。心得るべきは、出すべき時に出せ、ということ。出すべき時を誤り、機能性を発...

パンツ泥棒

パンツ泥棒はとても不思議な犯罪だ。大人として、男性として、ヒトとして、最低の犯罪であるにも関わらず、そこに人間の実に生々しい「知恵と勇気」が見て取れる。以下は一考察。 知恵とは、見えない価値のことである。 勇気とは、見えない可能性を信じる意思のことである。 パンツ泥棒ほど、知恵と勇気を駆使した犯罪はない。 そもそもパンツ泥棒たち自身、深く考えたことはあるのだろうか。 自分たちがいったいどのような価値のために、大きすぎるリスクを冒しているのか。 その価値は逮捕投獄というリスクに見合うのか。 見合わなければ行動に移すわけはないので、そこには相応の価値を感じているはずだ。 しかしそれは本当にパンツなのか? たぶんパンツに関係していることは間違いないのだろう。 しかしおそらく、物質的なパンツが目的ではない、と思われる。 なぜなら誰もが指摘するとおり、パンツなら100円で売っているのだから。 では、パンツの使用履歴から想像できる妄想に価値を見出すのか。 そうだとして、はたしてそのイマジネーションはリスクと見合うものなのか。 そもそも、誰が使用していたのか分からないパンツを盗らなければできない妄想なのか。どうせ妄想するなら、100円で買ったパンツが使用済みであると妄想するところからはじめればよい。 しかしパンツ泥棒はパンツを盗り続ける。 なぜか。 ここであえて「パンツ」を忘れてみると、気が付くことがある。 つまり、盗る行為自体が目的になってしまっているのではないだろうか。 パンツを前提にするとどう考えてもリスクと見合わない。 しかし逆に盗る行為は、リスクが高まるほど、価値も高くなる。 たしかにパンツを盗りに行くまでは、パンツが目的だったに違いない。 しかしパンツを目の前にしたとき、目的の変換が起きるのではないか。 自分はこれを盗るだけの「知恵」があるのか。小さな可能性を試す「勇気」はあるのか。 それを試そうとする動物的な欲求が出るのは、狩猟本能を持つ男ならば自然なことだ。 目的はもはやパンツではない。パンツは自分の能力を試すための道具にすぎない。 脳は臨戦状態となり、アドレナリンやらなにやらが駆け巡る。 しかもスポーツのような容赦はない。 その極限の緊張状態が、さらなる盲目的な集中力を生み出す。潜在能...

エネルギーの質、私たちの質

【エネルギーの質】 理系文系問わず、学生から時々聞かれる質問に、「エネルギーは保存されるのに、なぜエネルギー問題の解決は難しいのでしょうか。」というのがある。エネルギー問題の難しさは経験的には実感できるものの、たしかにエネルギー保存則だけに照らすと理解できない。 しかしエネルギーは質を変えてしまう。しかもその時、一部がかならず質の低い熱エネルギーに変わってしまう。質の低いエネルギーになるほど、質の高いエネルギーは得にくくなり、永久機関は存在できない。これを熱力学第二法則と呼ぶ。 エネルギーを質の順で並べると、最も質の高いものが電気(電磁)エネルギー、次に力学的エネルギー、光子エネルギー、化学的エネルギー、そしてもっとも質の低いものが熱エネルギー。熱力学第二法則は別名「エントロピー増大の法則」とも呼ばれ、エネルギーの質の低下をエントロピー汚染と呼ぶ。 この話は、理系文系問わず、よく盛り上がる。なぜか。 それはこの話に、理系文系を問わないあらゆるセンスが詰まっているからだと思う。 【私たちの質】 そもそも理系離れとは、この話に込められている意味合いを感じる「文学的センス」を失っているからで、理系のセンスを失っているからではないような気がする。 たとえば、この話を突き詰めると、結末が不安になる。なぜならエネルギーの一部が延々と熱エネルギーに変換されつづけ、エントロピー汚染が続くのがこの宇宙の摂理だとすれば、いずれ迎えるのは死ではないか。実際これを「宇宙の熱的死」と呼ぶ。 しかし一部の物理学者は、膨張論で対抗する。実際にハッブル望遠鏡が捉えている通り、宇宙は膨張し続け、あたらしい天体が生まれ続けている。宇宙全体のエントロピーが増大しても、体積が膨張すれば、エントロピーは低下し、永遠に熱的死を迎えることはない。ここに、文学的な感動を覚える人は多い。 なぜならこの話はまるで我々自身だからだ。私たち一個の個体を見ると、生まれた時に持っていた多様な感覚、センス、感受性、可能性は、年を経るごとに減り続ける。舌の味蕾は実際に減り続けるし、感受性も鈍感になり、インスピレーションは生まれにくくなる。努力しなければ、体の多様性は失われ、エントロピーは増大し続け、その先に待つものは死である。 ところが、宇宙と同じく、やはり待っているのは死ではない。私た...

なぜ雑巾は濡らすのか

ふきんや雑巾はなぜ濡らしてから使わなければならないのか。 二つの理由がある。 1.汚れを吸い取るため 水で濡らしたふきんや雑巾は、汚れを水で絡めとることができる。 2.汚れをさっと流すため 最初に水で濡らしたふきんや雑巾の繊維の表面は、薄い水の層でおおわれている。そのため、たとえ汚れがついても、水を含ませて絞ると、さっと流すことができる。 乾いたまま汚れをふき取った場合、それを濡らして絞っても、汚れがあまり取れない。それは水の層がなかったからだ。 実はこの原理、高度な膜分離にもそのまま当てはまる。 FILTOMのPD膜は、超親水性の「完全再生セルロース」でできている。 ふきんや雑巾、ティッシュと同じセルロース。 この世でもっとも親水性の高い材料がセルロース。 PD膜はまず純水で濡らしてから使う。どうせ処理液で濡れるので、わざわざ純水で濡らさなくてもよさそうですが、膜の表面に薄い純水の層を作ることで、処理液中の栄養成分が膜に吸着することを防ぐ。 しかもこの水の層、とても頑丈。 長時間使用しても水の層が壊れることはなく、処理液の栄養成分をそのままの状態、そのままの濃度で取り出すことができる。 最強の生物である植物が体の材料にセルロースを採用しているのは、こうした理由から。土から吸い上げた養分を、そのまま状態を保ちながら余すところなく体の隅々に運ぶため。 そして私たちも、セルロースほどではないけれど「リン脂質二重膜」という親水性の高い細胞膜を採用している。生体反応はすべて水溶液中で行われるため、親水性は水溶性の栄養成分を利用する上で欠かせない性質である。 FILTOMもこうした理由から、多くの膜素材の中で「完全再生セルロース」を採用している。