投稿

8月, 2016の投稿を表示しています

アートという先見性

イメージ
【C6愛のコラム】第二回「アートという先見性」 肌荒れを招く様々な環境の変化と、その対策について考える「C6コラム」。 その第四シリーズの「C6愛のコラム」。 前回は愛の数式を紹介しました。 愛とは、遠くの危機を察知するために高めた意識のエネルギー、と定義しました。 今回は、その意識を最大値まで高めている人たちの話です。 身近な危機だけでなく、人類、地球の危機まで捉え、苦しんでいる人たち。 アーティスト。 彼らの苦しみから生まれる芸術は、深くて難解ですが、未来へのヒントです。 【C6愛のコラム】第二回「アートという先見性」

パンツ泥棒

イメージ
パンツ泥棒はとても不思議な犯罪だ。大人として、男性として、ヒトとして、最低の犯罪であるにも関わらず、そこに人間の実に生々しい「知恵と勇気」が見て取れる。以下は一考察。 知恵とは、見えない価値のことである。 勇気とは、見えない可能性を信じる意思のことである。 パンツ泥棒ほど、知恵と勇気を駆使した犯罪はない。 そもそもパンツ泥棒たち自身、深く考えたことはあるのだろうか。 自分たちがいったいどのような価値のために、大きすぎるリスクを冒しているのか。 その価値は逮捕投獄というリスクに見合うのか。 見合わなければ行動に移すわけはないので、そこには相応の価値を感じているはずだ。 しかしそれは本当にパンツなのか? たぶんパンツに関係していることは間違いないのだろう。 しかしおそらく、物質的なパンツが目的ではない、と思われる。 なぜなら誰もが指摘するとおり、パンツなら100円で売っているのだから。 では、パンツの使用履歴から想像できる妄想に価値を見出すのか。 そうだとして、はたしてそのイマジネーションはリスクと見合うものなのか。 そもそも、誰が使用していたのか分からないパンツを盗らなければできない妄想なのか。どうせ妄想するなら、100円で買ったパンツが使用済みであると妄想するところからはじめればよい。 しかしパンツ泥棒はパンツを盗り続ける。 なぜか。 ここであえて「パンツ」を忘れてみると、気が付くことがある。 つまり、盗る行為自体が目的になってしまっているのではないだろうか。 パンツを前提にするとどう考えてもリスクと見合わない。 しかし逆に盗る行為は、リスクが高まるほど、価値も高くなる。 たしかにパンツを盗りに行くまでは、パンツが目的だったに違いない。 しかしパンツを目の前にしたとき、目的の変換が起きるのではないか。 自分はこれを盗るだけの「知恵」があるのか。小さな可能性を試す「勇気」はあるのか。 それを試そうとする動物的な欲求が出るのは、狩猟本能を持つ男ならば自然なことだ。 目的はもはやパンツではない。パンツは自分の能力を試すための道具にすぎない。 脳は臨戦状態となり、アドレナリンやらなにやらが駆け巡る。 しかもスポーツのような容赦はない。 その極限の緊張状態が、さらなる盲目的な集中力を生み出す。潜在能